百貨店とは何か 

社会人大学

前回までは、いわゆる越後屋呉服店が三井家にとって、お荷物になっていることまでお伝えしました。

では-、なぜそういったお荷物の越後屋が百貨店になれたのか。

これには、2人の活躍がありました。

1人は、三井銀行大阪支店長の高橋義雄ともう1人は同じく三井銀行和歌山支店長の日比翁助です。

高橋義雄は、洋行により築いた知見により三井銀行に入行後、1895年三井呉服店の理事に就任します。

高橋は、旧態依然の三井呉服店に大福帳から洋式簿記へ変更し、アメリカ式の販売方法であるショーウインドーを導入する事で、経営改革を行なっていきました。

その後の経営改革は、日比翁助に引き継がれ 日比は1904年合名会社三井呉服店を株式会社三越呉服店へと株式会社化を行ないました。

そして翌年の1905年 デパートメントストア宣言を行うことで、呉服業から百貨店への道を歩み始めることとなります。

しかし、デパートメント宣言を行なったとは言え、お手本とした米国や英国のデパートと比べるとまだまだ商品力などで劣る部分が多く、洋行視察を行い改善を続けていくことになります。

百貨店は、その名のとおり百貨の品々を揃え、販売することが必要ですが、

当時は今と違って、宅配便網もなく、もちろんインターネットやfaxもない時代です。

百貨店を営業するということは、毎日店頭に、商品を揃え、無くなれば補充するシステムを構築する必要があります。

そして、デパートメントストアの起源にあるデパートメントとは部門制を意味し

それぞれの部門での損益を把握するシステムを採用することです。

基本的には、英国のハロッズ百貨店を模倣する事で、三井呉服店から三越呉服店へと変貌していくこととなります。

会社名から三井の名前が外れていることからも分かるように、三越呉服店は三井の後ろ盾を無くし、自助努力により、経営を行なっていくしかありませんでした。

当時の三越は、ハロッズの経営手法や商品ラインナップを日本に導入することで、英国を初めヨーロッパの文化を日本国内へもたらす役目を果たしてきたといえます。

つまり、三越呉服店は主にヨーロッパ商品の購入を通じて文化の導入がなされた経緯を持ち、百貨店という言葉には、文化の伝導という側面があったと考えられます。

その結果、ヨーロッパの商品や文化に対しては、憧れや羨望が付随し、百貨店へ行き、商品を購入するということはその憧れを手に入れ、経験することでもありました。

現在、百貨店に対して憧れの想いを抱くのはこうした歴史を踏まえてきているからであると推察されます。

武士という主たる顧客層を無くし、三井家という後ろ盾を無くした企業がどういった経営を行なってきたのか。

米国、英国の文化とシステムを呉服店という旧態依然の店に導入し、新たな顧客層を築きあげることに猛進した企業が三越呉服店であり、そのビジネスとして生活必需品から嗜好品まで揃え、提供する仕組みを築きあげることに成功できたビジネス形態が百貨店であると考察致します。

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