大学院修士課程も残りわずかとなりました。まさか50歳を超えて大学にいるとは思ってもいませんでした。もちろん自分が行こうと思い、受験をしたからなのですが、なろうと思ってなれるものでないことは今までの経験からわかります。今、とても恵まれていることが実感できています。
今、何故、私がここにいることができているのかを考えると、とても自分だけの力だけでは到底辿り着くことが出来なかったと思うのです。
では、何故この場所にいることが出来ているのか。ほとんど根拠のない答えですが、そうなるようになっていたからとしか思えないのです。
前にも書いたことですが、思い通りの大学に行けなかったことで、自分の人生は終わったと思い、ろくな就職活動もせず、地元の就職先に拾って頂きくすぶっていました。
でも、その思い通りにならなかった自分を許して、受け入れてもいいのではと最近思えるようになってきました。
思い通りにならなかったおかげで、学部、大学院を通じて多くの先生方や学生のみなさんとお知り合いになることができました。
もし、思い通りの大学に行けていたら今のこの状況にはなってなかったはずです。自分の思い通りにならなかったとくすぶっている自分はとても視野の狭い人間だとつくづく思いました。
逆に言えば、思い通りにならなかったことで思い通りの場所に辿り着くことができたのだとも思うのです。
でも、思い通りになるとかならないとかは些末なことで、大事なことは周りに感謝して、ありのままの自分を受け入れることなのではと思うのです。
太陽の周りをぐるぐる廻っている土星や木星を止めようとするのが無益で意味のないことであるように、あるがままを受け入れることがこの世に生まれた自分の役目であると思えるようになってきました。
ではあるがままとはいったいどういったことなのか?それはたぶんに自分の気持ちや心に沿って生きることではないかとも思うのです。
修士課程が終わったあと、どの道に行くのかは、自分の気持ちに沿うことなのだと思います。
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