急に3連休が取れたので、長崎市を訪れました。
ここ一か月の間に、日帰りで京都の貴船と西陣地区、そして高知1泊2日と巡って来たので、小休止をするつもりでした。
ところが、思ってもいなかった休みがやって来たので、ここはちょっと無理をしてまでも、遠出をしてみようと思いました。
色々、計画を立ててはいましたが、やはり初日に長崎に着いた時には、ずっと座り続けたせいか、肩が張り、なんだかふわふわする感じがしたので、外へ出かけず ホテル内で過ごしました。
夕食は、地元の名物をと思っていましたが、着替えて外へ出かける気分ではありませんでした。
そこで、ネットで検索して出前館を利用することにしました。
料金は、店舗で注文するよりは割高になりますが、それでも外食するよりは安くすみました。
ゆっくりと部屋のテレビで、女系家族を見て明日への英気を養う事にしました。
翌日は、元気が出てきたので、出島を見学することにしました。
出島と言えば、日本史の教科書に載っている扇型の出っ張りを記憶していますが、明治に入り、鎖国政策が取り払われると、段々と埋め立てられ、最終的には、島で無くなってしまいました。
近年は、街の遺産とするべく再び元の状態の出島の復元を目指しています。
この出島が当時の日本に与えた影響は大きく、医学、薬学、土木、鉱山学、語学、建築学、冶金学、動植物学などの学問をはじめとして、絵画、焼き物、時計、地震計と世界の情報やモノが押し寄せるようにやってきました。
こうして、日本にとっては最先端の情報を得ようと、平賀源内、杉田玄白、司馬江漢、高野長英、伊能忠敬、などが各々の分野で力を発揮し、結局のところこうした学問や実学がのちの明治維新へと繋がっていくこととなりました。
このように、出島だけでも、語り尽くせない歴史を持っています。
長崎の歴史を振り返ると、古代から中世にかけて中国や南蛮貿易による外国文化を大きく受け、昭和に入るとやはり原爆の投下による影響を避けることはできません。
原爆資料館などで、体験された方々の証言や映像を見ると、言葉に言い尽くせない無力感に苛まれます。
焦土と化した長崎を、ここまで築きあげることができたのは何であったのか。
私の住む和歌山市も太平洋戦争時、爆撃を受け焦土と化しました。
市内にある江戸時代に起源を持つ約400年の歴史を持つブラクリ丁商店街も、壊滅しました。
しかし、その後バラックを経て、街の中心市街地を形成するまでに至りました。
その400年の歴史を持つ、ブラクリ丁もいまや瀕死の状態です。
人口や可処分所得が大きく変わらない長崎市と和歌山市の街の賑わいがどうしてこうも違うのか。
和歌山市はある種の病にかかっているのではないか。
人間の体で言うと、血圧や心拍数が正常範囲なのに、なぜか元気が出ない。
和歌山市はそういう状態にあるのだと。
400年ほど続いてきた商店街がここ20年ほどの間に急速に元気を無くしている。
長期に渡って病んだ病気は完治するのにも時間がかかるが、急速に病んだ病気は改善する可能性がより高いのではないか。
私の先生は、経済学は街の医学であると仰られています。
中世のイギリスに生まれたエドワードジェンナーさんは、牛痘法を発見する事で、天然痘を解決することに多いに貢献しました。
ジェンナーさんが牛痘法を発見した1796年に生まれた医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトさんは、1823年に長崎を訪れ鳴滝塾を開きました。
この鳴滝塾で学んだ高野長英、伊東玄朴を初めとして数多くの塾生が後の日本の医学の発展に大きく寄与することとなります。
牛痘法という医学が、天然痘の撲滅を達成することで人類の健康を保つことにつながりました。
和歌山市の病気は何なのか。どういった知見が必要とされているのか。
名医は、よく患者さんを診ると言われます。
患者さんが発する言葉や状況を、冷静に観察し対応する。
病んだ街にも同じことが必要ではないだろうか。
街づくりにおけるジェンナーさんやシーボルトさんが活躍して頂くことを願います。
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