切荘百貨店の誕生

社会人大学

今日は、田辺市民図書館へ切荘百貨店の記事を閲覧しに行ってきました。

切荘百貨店は、昭和40年10月1日 和歌山県田辺市の商店街の中に開店しました。

紀伊民報 昭和40年10月3日版

記事を読んでいくと、開店にあたって、商店街との軋轢があり、船出は順調とは言えなかったようです。

当初は、一つの建物の中に複数の店舗がそれぞれ経営する寄り合い百貨店として申請していたそうですが、申請を出した後に百貨店として変更し直してしまいました。

当時は、国も寄り合い型の組織を推奨していたことからもあって申請をしたのでしょうが、やはりこういったやり方は反発を招いてしまいました。

結局、申請を寄り合い型へ戻すために、h商店街の会長さんと切荘百貨店の社長さんが東京まで出向いたとのことでした。

しかし、切荘百貨店は、寄り合い型でなく百貨店型を選んだのは、その統一性からでした。

寄り合い型だと、どこかの店舗が赤字になっても、助ける事が難しく、倒産してしまう事例があったそうです。

なので、統一した組織である百貨店型を選択したのも理解できるところです。

商店街の魅力は、様々な店舗のバラエティ

ですが、組織化されず経営が一本化できていないことが、現在の衰退の原因の一つでもあると考えられます。

当時の新聞広告を見ていると、社員の給料は幹部候補生で2,5000円、大卒で2、1000円と書かれていました。

当時のあんぱんの価格が15円だった事から、現在なら幹部候補生は25万円、大卒が21万円くらいになるのでしょうか。

紀伊民報 昭和40年7月24日版

ほとんど平屋の商店街の店舗の中に、4階建の建物で、屋内にはエスカレーターが完備が二機あり、屋上には遊園地があるとなると、各商店街の店主は客を奪われると危機感を持つのは想像に硬くないです。

今日は、電車の関係で開店までの記事しか閲覧できませんでしたが、これから切荘百貨店がどのように経営し、田辺の街にどのように影響していったかを見るのはとても楽しみです。

トップ画像は、田辺図書館の近くで頂いたランチです。

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